火葬の歴史と火葬場の変化

遺骨が重要視されるのは仏教的信仰

日本に火葬が伝わったのは6世紀ごろだと言われています。日本の火葬は仏教の歴史と共にあると言っても過言ではないでしょう。仏教の普及にあたっては遺骨がひとつの重要な要素を占めています。仏教の開祖である釈迦は亡くなったあとに遺体が火葬され、その遺骨は世界各地に運ばれています。ある資料によると遺骨は細かく粉砕され八万余りの多くの寺院に配られたと言われています。

釈迦の火葬を真似て少しずつ広がっていった火葬

日本における火葬の歴史というのはそうした仏教における釈迦を真似て行われたという背景があります。8世紀には天皇の火葬が行われた記録が残っており、そうした背景から仏教僧や貴族などの間で少しずつ火葬が行われるようになりました。
鎌倉時代になり鎌倉仏教という庶民を対象にした仏教が普及していくと共に火葬も庶民に広がっていきました。しかし火葬といっても現在のような火葬炉があり室内で行うものではなく、屋外で行うものであり薪の上に遺体を乗せて焼くというものでした。

江戸時代には都市部に点在した火葬場

やがて人口が大幅に増加し始めた江戸中期以降火葬場が作られるようになりました。火葬が増加したことや土葬をするスペースが亡くなったことなどから、壁や瓦屋根のある火葬を行う場所が作られたのです。特に早くから人口が集中する地域であった関西では火葬に対する意識が強く、そのことが現在までの西日本と東日本の現在の火葬の習慣の違いの元ともなっています。江戸時代に火葬場があった場所として有名なのは深川、芝、代々木、上落合、砂町、桐ヶ谷、千住です。中には現在繁華街になっている地域や住宅地などもあります。

徐々に広くなりつつある火葬場の利用範囲

やがて明治時代以降に西洋の炉の技術を使った火葬炉が都市部を中心に数多く作られていきました。そのうちの多くは地域コミュニティなどの、葬儀を行うための小さな規模の共同体だったのです。そうして戦前、戦後に多くの火葬炉が民間の手で作られました。しかし時代が流れていくにつれて、少しずつその役割というのは市町村単位の地方自治体に委ねられていきました。
また、より集合的で規模の大きな火葬施設の方が、施設の設置を考えると用地の問題などから考えると容易であるため、小さなコミュニティではなく、大規模な施設として公営斎場が作られるようになったのです。
例えば埼玉県東南部地域では越谷市斎場が供用されています。名称は越谷市斎場ですが、関連地域は越谷市以外に吉川市と松伏町もあります。吉川市については、以前は吉川市単独の公営斎場を使用していましたが、現在では広域公営斎場である越谷市斎場を利用しています。
火葬施設というのは時代によって様変わりしています。主に政治的な面や法律的な面からこうした変化が起こっています。時代によって火葬施設は変化して行くのです。今から200年後にはわたしたちの想像もつかない火葬施設ができあがっているかもしれません。